メキシコシティはメキシコ文化史ならびに世界の都市史上で重要な地位を占めるにもかかわらず、日本の研究界では、メキシコシティの歴史は今日に至るまでほとんど研究対象とされてこなかった。その理由のひとつに1910年のメキシコ革命時、スペイン植民地時代から継承された道路や街路の名称を、数ヶ所を除いてことごとく革命政府が改変したことが挙げられる。メキシコ革命以前の資料に記載された地名を確認するには、1910年以前の古地図を必要とするわけだが、それを日本で入手するのは実際上困難であった。
当地図は、メキシコ革命から四十三年前の1867年に、メキシコ勧業省が作成したPlano de la ciudad de México『メキシコシティ街路地図』をデジタル化したものであり、以下の特徴がある。
上記の点から、メキシコ革命以前、とくに十九世紀前半のメキシコシティ関連の文献を研究する上で、有用な基礎資料になるものと思われる。
当地図にはスペイン人居住区の街路名だけでなく、旧インディオ地区の街路名も含まれている。また、アステカ時代から存在した陸と島をつなぐ三つの街道および橋、さらにスペイン統治以後に作られた十カ所の関門も記載されており、メキシコシティの生活史研究にも役立つものと思われる。
この資料は次の二つの点を意図する。
この19世紀メキシコシティ地図のデジタル版は、メキシコシティの歴史に携わるラテンアメリカ研究者を支援する目的で、日本の文部科学省の助成により作成された。本デジタル地図を活用することによって、研究者はメキシコシティ史の研究をより立体的におこない得るであろう。
本デジタル地図の原図は、1973年に建築家のフアン・コルティナ・ポルティリャが私費を投じて出版したマヌエル・オロスコ・イ・ベラの著書Memoria para el Plano de la Ciudad de México 『メキシコシティ市街地図起草の記録のために』の復刻版№92(非売品の五百部限定版)に付随する103×75cm大の上質紙に印刷されたものである。同書は上智大学中央図書館に収蔵されており、その本文には主要な建物の歴史に関する記述と、この地図起草の記録、気象観測が含まれている。1973年にポルティリャ氏がこの原図を上智大学中央図書館へ寄贈することがなかったら、このデジタル地図は存在しなかった。筆者の知る限りでは日本で同書を所蔵するのは上智大学図書館だけである。 マヌエル・オロスコ・ベラの略歴を、La ciudad de México『メキシコシティ 』(1987年・Porrúa社刊)の著者エルネスト・デ・ラ・トーレ・ビリャールによる序文から要約し、以下に紹介する。
1810年6月8日メキシコシティに生まれる。19世紀後半の重要な歴史家の一人。メキシコ市立鉱物大学で工学と地形学を修め、国立総合公文書館館長など数々の要職に就く。地理学と歴史学の複眼的視点をもって多大な功績を残し、無秩序とアイデンティティ喪失に陥っていた当時のメキシコに進むべき方向を示すべく、全ての情熱と歴史地理学の知識を注いだ。1881年1月27日没。
俗に言う『メキシコシティ』の正式名称は『ディストリト・フェデラル(D.F)』である。面積は1547平方キロに及ぶ。法的存在としての『ディストリト・フェデラル(D.F)』は1824年の独立時に起草された最初の憲法と共に誕生した。スペインから独立し、連邦共和国(República Federal)となったメキシコの人々は法の前で平等となり、インディオ、クリオーリョ(植民地で生まれたスペイン人)とペニンスラール(スペインで生まれた者)、メスティソ(混血)の区別が消えた。所謂『メキシコ人』が誕生したわけだが、植民地時代の旧所有地法はこれらの身分区別を反映していたので、その影響を受け、新しい所有地法下の、現実的な所有地権を巡って大きな混乱が生じた。その混乱を収拾するための一策として『ディストリト・フェデラル(D.F)』という連邦区が誕生したのである。
『ディストリト・フェデラル(D.F)』は、旧メキシコシティの中央広場(plaza mayor)から半径2レグア(約8.38㎞)の円内に及ぶ地域と決定された。テノチティトラン島にあった旧インディオ地区(parcialidades)、サンフアン・テノチティトラン(San Juan Tenochtitlán)とサンティアゴ・トラテロルコ(Santiago Tlatelolco)とスペイン人居住区のラ・トラサ(la traza)がその円内に飲み込まれることになった。
古くから『メキシコシティ(Ciudad de México)』と呼ばれる都会的な空間は、約13.5平方キロの面積を占める旧アステカ帝国の都テノチティトラン島の上に建設された。1521年にアステカ族を滅ぼして、メヒコの支配者となった征服者コルテスは、アステカの宮殿を解体した後に残された石材を利用して、碁盤の目状に整備されたスペイン人専用の町、ラ・トラサを建設した。そしてラ・トラサ以外のテノチティトラン島の地域(主に島の東側)にインディオを住ませた。
しかし、スペイン人の侵略以前からこの島に生活していたアステカ族とトラテロルコ族は犬猿の仲であった。そのため征服者のスペイン人は、インディオと白人の居住区域の分離を決定するに当たって、インディオの居住区域を二つに分割せざるを得なかった。かくしてテノチティトラン島に二つの異なったインディオ地区にサンフアン・テノチティトランとサンティアゴ・トラテロルコが誕生したわけである。
スペイン人地区のラ・トラサは、より面積の広いサンフアン・テノチティトランの中に作られた。ラトラサは、征服に参加した者にスペイン王から下賜される土地であったため、法的にスペイン人の所有地であった。それに対してインディオ地区のサンフアン・テノチティトラン(ラトラサを除く部分)とサンティアゴ・トラテロルコは建前上インディオの所有地であったが、実質的にはスペイン王が管理しており、その管理を王に代わって遂行してインディオ審問庁(Juzgado General de Indios)の支配下にあった。
当地図を作成したプロジェクトの責任者、マヌエル・オロスコ・イ・ベラは、当時の大臣ドン・ホアキン・デ・ミエル・イ・テランに宛てた手紙の中で、この地図は「あらゆる障壁を乗り越える意志の力で実現された、計り知れない価値を持つ第一級のもの」と語っている。そして、これはメキシコシティが誕生して以来、初めての正確な地図だという。すなわち『ディストリト・フェデラール(D.F)』が誕生してから43年目にして、ようやく正確な旧メキシコシティの地図ができあがったわけだ。
ここで我々がデジタル化した地図には、スペイン人居住区ラ・トラサの街路名だけでなく、旧インディオ地区サンフアン・テノチティトランとサンティアゴ・トラテロルコの街路名も含めている。詳細に旧メキシコシティを再現したこの地図は、言うまでもなく植民地時代と同じものではない。上で述べたとおり、メキシコという独立国家が誕生した1824年以来、メキシコは急速に変化した。そして1867年といえば、フランスによるメキシコへの干渉戦争が終わった年であり、日本では明治維新の激動期であった。
当デジタル地図はインターネット上で公開し、原則として閲覧は自由かつ無料である。今後、当地図に1910年までのメキシコシティの歴史にかかわる研究リスト(日本語とスペイン語のもの)を添える予定である。今後、日本だけでなく韓国や中国など、ラテンアメリカ学が形成しつつあるアジア地域においてメキシコ及びその首都の研究が発展していく過程で、このデジタル版地図と付録が役立てられ、「現代世界に貢献する地域研究」プロジェクトの目的に合致するグローバルなレベルでの研究が拓かれていくことを期待するものである。(長谷川・ニナ)